PBMの心得

〜アクションを書く時の心得〜


その一、アクションに良いも悪いもない

数年前、とあるプレイヤーさんからこんな質問をされたことがあります。

「良いアクションというのは、どんなアクションですか?」

改めて聞かれると、すぐに答えることができませんでしたが、幸いにも手紙での質問だったため、数日間考えた末、その時に考えついたことを答えた……と記憶に残っています。そして、その質問は未だに私の心に残り、明確な答えが出ないまま、現在に至っております。


どんなゲーム(この場合はPBM)のマニュアルにも、『良いアクションの定義』みたいなことが書かれていて、確かにそうした定義というものはアクションを考える上で『一つの指針』にはなります。だから、『一つの考え方』としてはとても参考になっています。これは紛れもない事実です。

かと言って、「目的・動機・行動・予想」が具体的に書かれていて、マスターにも理解できるような文章だったとしても、それだけで良いアクションだとは言えないのも事実なのです。

「具体的に分かり易く書く」というのは、読み手に自分の考えを明確に伝えるということであり、それは相手に対する礼儀や思いやりにも繋がります。ですから、そういう意味では、マニュアルに書かれているような『良いアクションの定義』というのは、マナーを考える上でも大切な要素には違いありません。


が、果たして、私が求めている『真のアクション』というものは、一体どんなアクションなのか……? 一般的な考え方ではなく、マニュアル的な考え方でもなく、「私ならば、こうする」という意味でのアクションとは、果たしてどんなものなのか……?(何もそこまで真剣に考えんでも……って、確かに考え過ぎですね。我ながら、なにを考えとんじゃと思う時もあります。)

考えていくうちに、ふと閃きました。それは明確な答えではなく、どちらかと言うと「ヒント」に近いものでした。それは、『アクションに良いも悪いもない』ということです。


例えば……皆さんも、もしかしたらこんな経験をされたことがあるかもしれませんが……「今回のリアクションを読んで、次回の出来事を予想してみた。その予想に基づいて、目的・動機・行動を書いてみた。何度もマニュアルを読んで、良いアクションになるように自分なりに頑張ってやってみた」……その結果と言えば、予想は外れておらず、行動も成功していたが、キャラクターの描写が少なかった。

成功と言えば、成功なのですが、『キャラクターの描写が少ない』というのが、かなり引っかかりませんか? 行動自体は失敗していても、扱いの大きいキャラクターもいるというのに……。

つまり、自分では良いアクションだと思っていても、客観的に見るとそうではない場合もあります。この『客観的に』が曲者なのです。


『客観的に』とは言っても、行動の成否を判定するのマスターです。もちろん、マスターも客観的に判定されていることは、文章を読めばある程度は理解できます(理解に苦しむケースもありますが)。

10年近く、メイルゲームで遊んでいますが、その間にいろんなタイプのマスターさんにお世話になりました。それで感じたことは、「基本的な判定というものは確かにあるが、マスターによって判定の『ツボ』が異なる」ということです。(ちなみに、ゲームによっても判定の基準は異なります。)


判定の『ツボ』というのは、プレイヤーとマスターとの相性も含まれています。『ツボ』というのは、その人自身の『無条件に感動するポイント』と言い換えても間違いではありません。誤解を恐れずに言うならば、『ツボ』さえ分かれば、活躍できる可能性が高くなります。が、『ツボ』というものは、おいそれと理解できるものではなく、理性さえも越えた部分にあるため、「こうすれば、こうなるだろう」といった計算は通用しません。

つまり、『個人レベルでの良い悪いという判定を超えた部分』に『ツボ』があると言っても過言ではありません。ツボは……おそらく、『感性の領域』にあるのではないかと思われます。だからこそ、アクションには「良いも悪いもない」のです。


『感性』は良い悪いで判断するものではなく、言葉で説明すると「心の琴線に響く」という解釈になりますが、実際には言葉の解釈さえも超えた感覚ではないかと思います。それ故に、理性的に良い悪いという判断は関係なくなり、「感覚的に響く」ものこそが、人にとって『気持ちの良いアクション』ということになります。


『良いアクション』と『気持ちの良いアクション』というのは、よく考えると別物です。これは私の考えですが、「良いアクション」というのは『気配りが感じられる文章』で、「気持ちの良いアクション」というのは『感覚的に素晴らしいと感じる』『行間から書き手の成否を越えた想いが伝わってくる』といった目に見えない部分ではないかと……。

『気持ちの良いアクション』を見てしまったら、理性での判断に加えて、感性までもが刺激されて、なんて素晴らしいアクションなんだと感動してしまう訳です。こうなってしまうと、行動の成否を明確にしつつ(成功か失敗したかの描写)、キャラクターの生き様や想いが前面に押し出されることもあります。そこに、メイルゲームの『ゲームを超えた面白さ』があるとも言えます。


自分なりにいろいろと考えに考えた末のアクションで失敗したとしても、それが納得できるような判定でしたら受け入れますし、一生懸命考えたアクションが成功して、尚且つ大活躍していたら、そりゃーもう素直にうれしいです。ただ、それだけのことです。

結論……そこで、私が思ったことは……なーんだ、結局、自分のやりたいことをやればいいんじゃないの。人としての道から外れない限り、リアクションでの出来事(状況)から脱線しない限り、アクションというものは、ある程度は『自由』なんだと……。


自由というのは、好き勝手にやるという意味ではありません。ましてや、身勝手な願望を押し付けても良いという許可を前提としている訳でもありません。

自由という幻想を、自分にとって都合の良いように解釈しても、あまり発展性はありません。選択できる行動は限られています。「そうした制限の中で、どこまで『自由な発想・想像』ができるか」という意味です。発想と想像というのは、人間ならば誰でも持っている『創造性』のことです。


そうした『創造性』と繋がりがあるからこそ、メイルゲームにはまだまだいろんな可能性があると確信しています。その可能性が見えにくいため、なかなか発展しにくいというか、衰退していくようにも見えますが、現にこうしてネットノベルゲームに参加させていただいているので、私個人としてはメイルゲームというのは、まだまだ飛躍する可能性があると感じています。可能性とは言っても、先が見えず、手探り状態といった感じは拭いきれませんが……。(単に好きだから、可能性があると思いたいだけかもしれませんね。)


長々と書いてしまいましたが、このコーナーは不定期に連載していく予定です。

次回も楽しみにしていただけたら、幸いです。


書いた人:仲原(ジェス・ラーディエルのプレイヤー)



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